[甲子園へ 情熱インタ](3)旭川南高野球部・小池啓之監督
第3回は、下馬評を覆す快進撃で10月の旭川支部予選を制覇、全道大会出場を果たした旭川南の小池啓之監督(57)。03年に、腸の病気で成功率30%といわれる大手術。生命の危機を乗り越え、昨年はチームをセンバツ出場へ導いた。現在も病魔と付き合いながら「グラウンドで死ねたら本望」を地でいく小池監督の、野球への思いを聞いた。
―東京・南品川の出身で、幼稚園から高校まで関西。北海道との縁は。
小池「駒大で肩を壊し野球が出来なくなった。当時、教職課程をとっていたが、教員になる気はなし。教育実習で母校に戻るのが恥ずかしく、系列校の駒大岩見沢へ」
―当時の駒岩は。
「野球部なんて全然。岩見沢がどこにあるかも知らなかった。そこで2週間コーチをやってみて、ひとつの生き方としていいなあと」
―北海道の印象は。
「77年正月に生まれて初めて旭川へ。寒かったなあ。ポットストーブ一つ持って行ったら零下30度。寒さで起きた。人間の住む所じゃないと、最初の10年は帰省したらもう戻りたくなかった」
―それから30年以上たちました。
「雪解けは3月。ストレスもたまった。土の色が見えた時は感動した。今では北海道に骨を埋めようと思う」
―その後、部長として鵡川へ赴任しました。
「原点に戻りたくて平成10年に公立へ。御大(鵡川・佐藤茂富監督)の大番頭で4年。グラウンド以外のことはすべて引き受けた。あの人をイエスマンにしたのは僕だけ。信頼してもらった」
―今年の鵡川は強い。
「優勝した慶応より個々の選手は上。“茂富最高傑作”じゃないか」
―旭川南に移って、病魔に襲われました。
「転勤翌年の03年に『腸間膜静脈血栓症』で緊急手術。成功率は3割だったらしい。50センチ腸を切った。食べても栄養にならず、12キロやせた」
―現在は。
「今も(腸は)癒着している。毎月の定期検査と薬は欠かせない。今年は初めて一度も入院せずに済んだ。食べた後によく腸閉塞(そく)を起こした。王さん(前ソフトバンク監督)と同じ症状」
―医師からは。
「大声出すな、興奮するな、安静に、と。全部ムリ。(医師はあきらめ)グラウンドで血を吐いたらすぐ来てくれと言われている」
―まさに命懸け。
「自分では『グラウンドで死ねたら本望』そんな気持ちでやっている。嫁さんには怒られるが」
―病気をして考え方が変わった?
「いつ自分が倒れるかわからない。一日一日が勝負。生きてるのがもうけもの。欲も得もなくなった。人生観変わった」
―この秋は1年生主体のチームが思わぬ活躍。
「監督がびっくり。抽選を見て、ゆっくりできると。予約していた温泉もキャンセルした」
―当面の目標は。
「来春、全道大会に出たい。鵡川とやりたい」
―冬場の練習は。
「去年から真冬でも野外ノックを取り入れた。球足が速いからグラブが自然と下から出る。夏は冬の努力で7、8割決まる」
―オフは素振りが大切。スイングのノルマは。
「冬は2000本」
―監督のモットーは。
「練習は試合のためにある。これは高校時代に培ったもの」
―教育上で最も子どもたちに伝えたいことは。
「生きていく力をつけさせたい。過保護は子どもを信じてない証拠。いい選手ほどどん底に落とす。人間は苦しい時に真価が出る。信じてはい上がらせる」
―最後に甲子園とは。
「すべてをかける場所。甲子園までの道のりが一番尊いのかも」
◆小池 啓之(こいけ・ひろゆき)1951年11月15日、東京・南品川生まれ。57歳。市立尼崎から駒大を経て77年に旭川竜谷に赴任し野球部コーチに。夏の甲子園は、78年コーチ、83年は監督として出場。98年から鵡川に赴任。02年に部長としてセンバツ出場。同年12月に旭川南へ。07年21世紀枠でセンバツ出場を果たした。家族は妻と1男2女。
◆旭川南高校 1955年に私立・旭川南高として創立。74年に市立に移管し80年に道立の普通科高に。生徒数593人。野球部も同年創部で部員は1、2年生で43人。柔道部は恵本裕子(アトランタ五輪金)、上野雅恵(アテネ、北京五輪金)らが卒業生。1964年夏に甲子園初出場。07年のセンバツに21世紀枠で初出場。旭川市緑が丘東3条3の1の1。
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