2009年の私の初夢は、「夢って何だろう?」と必死に考えている自分の姿の夢でした。「40代半ばになって、夢といってもなあ…」1月2日の朝はそんなことを考えながら目覚めました。
年賀のあいさつのつもりの電話は、思わぬ長電話になってしまいました。
「今年は2年目やから、去年よりはいい結果が出せたらなあ、と思っています」そんな今年の目標を話してくれたのは、大阪の履正社医療スポーツ専門学校野球部・森岡正晃GM兼監督(ふだんは「森岡先生」と呼んでいるのですが…)でした。この学校はスポーツや医療の現場のトレーナー、野球やサッカーの指導者、鍼灸師など、医療やスポーツで社会貢献する人材を育成する専門学校で、甲子園経験のある履正社高校と同じ学校法人になります。森岡先生は、昨年からウエルネススポーツ科野球コースで教壇に立つと同時に、硬式野球部を指揮しています。
出会いは18年前の8月でした。入社4年目、27歳の駆け出しアマチュア野球担当の私は連日、甲子園に通っていました。初出場の大阪桐蔭が、のちに阪神にドラフト1位で入団する主砲・萩原誠を中心に、圧倒的な強さで優勝まで一気に駆け上りました。私より2歳年上の森岡先生は当時、このチームの部長でした。毎日のように顔を合わせて色んな話をする中で、今でも忘れられない言葉があります。それは沖縄水産との決勝戦直前、打撃練習の一塁側ベンチでのことでした。
「私は自分の師匠に、『自分の学校へ来てほしいと思う選手には、自分の恋人に話すように接しなさい』と言われたんです。その教えは守っているんです」振り返ればあの時、森岡先生が「一緒に日本一になろう」と声をかけ、その人柄を慕って集まってきた選手ばかりでした。野球に対する思いはもちろん、部長としての選手への愛情、教師としての生徒への情熱に感嘆せずにはいられませんでした。
PL学園時代に主将を務めた森岡先生ですが、甲子園経験はありませんでした。2年上のチームは西田真二投手(現四国九州アイランドリーグ香川監督)と木戸克彦捕手(現阪神ヘッドコーチ)のバッテリーで夏の甲子園で初の日本一に輝きました。1年先輩は小早川毅彦一塁手(現広島1軍打撃コーチ)を4番に、センバツでベスト4に進出しました。1年下は吉村禎章主将(現巨人2軍監督)のもと、センバツで優勝を遂げています。まさに強豪の"谷間の世代"の選手でした。進学した近大時代から「将来は指導者に」と考えていました。PL学園時代の鶴岡泰監督(現姓山本、現マリナーズ・スカウト)が、大産大付、系列の大阪桐蔭の監督を務めた縁で、大阪桐蔭に赴任したのでした。
ところが…。
「いつかは、自分も監督として甲子園に」と、抱いていた熱い夢が実ることはありませんでした。学校内の事情で日本一の翌年には野球部を外れ、ラグビー部の部長になりました。会うたびに、「どっか、高校野球の監督の話ないですか?」とたずねられました。それでも、全く素人のはずのラグビー部では、野球で培った人脈を生かし、メディカル面で花園出場をアシストしました。その情熱の注ぎようは、野球部長時代と何ら変わりはありませんでした。同時に「絶対役に立つ」と、すでに持っている社会の教員免許のほかに、体育の免許を取得しようと、普段の勤務の傍ら、大体大の聴講生として教職課程を学びました。
ある日、大阪桐蔭のサッカー部出身の息子さんを持つお母さんと知り合う機会がありました。ふと、森岡先生の話になり、「本当に先生には、息子がお世話になったんですよ」と聞いて、変わらない人柄に妙に納得したこともありました。
そんなこんなで10年以上過ぎた一昨年の秋、突然の報告が届きました。「大阪桐蔭辞めて、履正社の専門学校でお世話になることになりました」40代半ばで転職する思い切りはもちろん、「野球の指導者に戻りたい」という思いを持ち続けていたことに驚かされました。
現在の野球部は1991年の甲子園Vメンバーの遊撃手だった元谷哲也さんがヘッドコーチを務めています。さらに、森岡先生の人脈で、コーチには、教え子の今中慎二さん(元中日)や高校の大先輩、加藤秀司さん(元オリックス2軍監督)、さらには大石清さん(元阪神コーチ)といった豪華な面々が名を連ね、定期的に指導にあたっているとのことです。専門学校は日本野球連盟に所属しているため、社会人とも対戦するだけに、何とも心強いスタッフです。昨年は7月の全国専門学校硬式野球交流大会で優勝しました。「今年は社会人にも勝たないといけませんね」と私が投げかけると、「楽しみな選手もいるし、それも大事なことやけど、もっとやっていきたいこともあるんですよ」と返ってきました。
昨年11月には、吉田えり投手が合格して話題になった関西独立リーグのトライアウトに、選手たちはボランティアで打撃投手などのアシスタントを務めました。ボーイズリーグの試合に女子マネジャーがウグイス嬢として出かけることもあるそうです。また、2年間の専門学校を終えると、将来のプロを目指して大学や社会人に進む選手ももちろんいます。学んだことを生かしてトレーナーなどの道に進む選手もいれば、野球中継のCGを担当する仕事に就いた選手もいました。今年卒業する女子マネジャーは、独立リーグの運営に携わることになったそうです。「来年度は、審判を養成するカリキュラムも作ろうかなと思ってます」と森岡先生は言います。「野球界を裏から支える人間ももっともっと育てていこう、と思っているんですよ」と続けた言葉には、そう、あの18年前の夏のような"輝き"がありました。
あの頃描いていた夢とは、少しばかり形が違うかもしれません。それでも、森岡先生はひとつの"目的地"にたどり着こうとしているのではないでしょうか。甲子園を目指す高校野球ではないにしろ、選手と一緒に勝利を追い求める「野球の指導者になる」というひとつの夢はかないました。そして私には、盛岡先生のもうひとつの夢が見えたような気がしました。
誰もがいつまでも選手としてプレーし続けられるわけではありません。「いつまでも野球にかかわっていたい」という思いを持った選手の居場所をつくることこそが、野球の底辺拡大につながる、という考えは、長く野球を離れ、他のスポーツに携わっていたからこそ、気づいたことなのかもしれません。回り道があったからこそ見えてきたその場所へ、今年は13日から練習を始めるということです。
ちなみに…。
「急がば回れ」とは江戸時代の東海道に由来しているようです。東海道の宿場町、現在の滋賀県草津市にひとつの道しるべがありました。江戸から京都へ向かう時に出会うその道しるべは、左は東海道の正規のルートを、右は琵琶湖の湖畔へと続く近道を示していました。正規の東海道を通れば、琵琶湖の南東部をぐるりと迂回しなければならないのに対し、琵琶湖を帆掛け舟で渡れば対岸の大津までたった3キロ。しかし、先を急ぐ人には人気がなかったということでした。琵琶湖の西の比叡山から吹き降ろす強い風で、船がなかなか進まなかったということから、「目的に早く到達するには危険をはらんだ"近道"より、少々"遠回り"しても安全確実な手段を選んだ方が結果的に早い」という意味で使われるようになったと言われています。
スポーツ報知 関西コラム
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